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寿司と印刷と人生と。イラストレーター高市さんの辿った道は“伏線”だらけ(前編)



青い海と空、遠い街並み、透き通るような女の子。イラストレーターの高市さんは物語を感じさせる絵を中心に制作し、コミティアなどのイベントで活躍されています。そんな高市さんのもう一つの顔は、room6のパブリッシングディレクター。インディーゲームレーベル「ヨカゼ」タイトルをはじめとした、さまざまなゲームの広報や印刷物のディレクションをおこなっています。多彩な顔をもつ高市さんに、活動のエネルギーのひみつを伺いました。


――自己紹介をお願いします。





高市さん:

初めまして。高市というペンネームで活動しています。room6で会社員として働きながら、

主にイラストの自主制作やゲーム制作のお手伝いをしております。



高市さん:

room6のお仕事については一言で説明が難しいのですが、メインはゲームのパブリッシングを担当しています。開発者さんの作品をリリースするための広報や開発支援の取り組みをするなかで、制作進行・広報素材やDTPデザイン(※1)の作成や提案をおこなっている、というのが主な仕事ですね。「運動部のマネージャーのような存在です」とよく言っています。あとはイベントのノベルティやグッズの企画監修・デザインもやっています。いろいろやってます!


(※1)DTPデザイン

パソコン上で制作される印刷物のデザイン。


――ありがとうございます。個人のご活動としてはいかがですか。


高市さん:

room6に来る前から自主制作的な感じでイラストを描いています。主に個人や企業の方の依頼を受けて、書籍の表紙・挿絵、音楽関係のMV・CDジャケットを制作することもあります。でも主軸は自分のイラスト集を制作して、コミティアなどで絵や作品を発表するという活動ですね。あと現在、紙パレットさん(※2)が開発中の『星のハルカ』という作品のデザインワークのお手伝いもおこなっております。


(※2)紙パレットさん

国内のインディーゲーム開発者。2020年にリズムアクションアドベンチャー『ジラフとアンニカ』をリリースした。現在最新作のRPG『星のハルカ』を開発中。




――普段の作業環境を教えていただけますか。


高市さん:

Macを使っています。モニターは、ありがたいことにEIZO(※3)という会社さんから頂いたカラーマネジメント(※4)ができるモニターを使っていて、個人制作でもお仕事でも大活躍しています。あとは液タブですが、WACOMの「Cintiq 13 HD Graphic Pen Tablet for Drawing」を使っていて、そろそろ買い替えたいなあって思っているところです。デスクトップの環境はあるんですけど、出張の多い仕事なので、会社から支給いただいているMacbook Airと液タブを持ち歩いてホテルや移動先で作業してたりします。


(※3)EIZO

国内の企業。コンピュータモニターなどの映像関連機器を扱っている。


(※4)カラーマネジメント

モニターや印刷機など、異なる機器の間でデータをやりとりする際、それぞれの機器の特性に合わせて色のデータを管理することで一貫して同じ色を再現すること。カラーマネジメントをおこなわないと、同じデータでも機器によって異なる色が出力されてしまう。


――ソフト面ではいかがですか。


高市さん:

メインはずっとPhotoshopですね。最近はCLIP STUDIO PAINTでも作業するようになりました。半々くらいですね。それとときどきアナログで線画だけだったり、着彩とかやったりするので、取り込んで描くうえではPhotoshopが多いかな、という感じですね。


――高市さんのイラストといえば、女の子の可愛らしさと同時に景色の広がりが印象的です。風景の着想はどこから得ていますか。


高市さん:

変な作り方なんですけど、私は街を歩いていて「見間違い」みたいなのが多いんです。たとえば何気ない喫茶店に入ってコーヒーを頼んだときに、そのカップが建物に見えたりとか。そういうとき「もしこのコーヒーカップが建物だったとして、この風景のなかに人がいたら面白いよね」と考えるところから着想を得てたりしますね。ほかにも道端に積んであるビールケースとか、路地のパイプとか「こういうところに人が立っていたら面白いよなあ」みたいな感じで絵の中で人を歩かせてみたりとか。そして自分のなかでカメラを動かしてみて、物語をそこからイメージしますね。「ここにいる人って何をしてここに迷い込んでしまったのかな」というところから、キャラクターのイメージが出てきてそれを絵にしている感じです。


あとはゴチャゴチャした街に行った後とか、お酒を飲んだ後とか、変な夢をいっぱい見るんですけど、その夢のなかで見た景色とかも参考にすることがあります。もちろん、写真や実際に見た風景を参考にすることもあるんですけど、そうでないときの一から書いてる風景の場合、見間違いやよく分からない風景の集合体みたいな感じのことが多いですね。



――高市さんには常に風景が見えているんですね。


高市さん:

部屋がゴチャゴチャなので、いろんな見間違いがたくさん起きます。DTPとかグッズ制作とかやってると、校正品とか紙見本とかが山積みになるんです。もう、家が街みたいになってますよ(笑)自慢できませんが。


――高市さんのイラストでは海の風景がよく出てくることも印象的です。


高市さん:

母親が兵庫県の人間なんですけど、海の近くで子育てしたいっていう思いがあったらしくて。実家は垂水(たるみ)というところで、生活圏と海、それから線路に近かったので、それが原風景というか、小さいときから海ばっかり描いていました。自分のなかで「ちょっと心に余白が欲しいな」と思ったときは海を描きがちっていうのがあります。


それから神戸は大体山の上に学校があるんです。私は海側が家なので、そこを行き来するっていう行為がちょっとゲームの体験っぽいなと思いましたね。何か用事があるときは山の上に行く。何かが終わって片付いたと思ったら海を見ながら山を下っていくっていう。だから海を見ているときは、用事を終えてリラックスしているときっていうのが紐づいているのかなと思います。


――高市さんにとって、海のイラストを描くことは心の安らぐことなんですね。


高市さん:

ゲームをチームで制作するときにも、鑑賞した人が生活のなかの余白みたいなものを受け取ってもらえると嬉しいなと思いますね。自分自身もそんな余白が欲しいなって思いで作ったりすることが多いので、そのなかで自分の引き出しのいちばん上にあるのが海なんだろうなって、今思いました。




描くのは、本を作るため


――イラスト自体はいつから描いていますか。


本当に子どものころから描いているんですけど「ずっと絵が好きで、時間があれば描いていました」みたいな感じではなくてですね。絵を描くことは好きだし目の前に海があったりはしたんですけど、テーマがなかったり白紙だったりすると何もできなくなるという性格が小さいときからありまして。でも何か作りたい気持ちはずっとあるっていう感じでした。


それで小学校に入ったときに絵本を作る授業みたいなのがあったんです。物語を書きつつ、製本しつつ、表紙も描いて挿絵も描くっていう一連の流れをやってみましょう、という課題が小学1年生の最後にあって。それが何かピタッとハマったんです。それ以来、本を作るっていう行為とセットで自分のイラストがあるっていう感じですね。


――本の制作ありきのイラストなんですね。


高市さん:

そうです、というのも私は絵も好きだけど、どちらかというと本を読んでいることが多かったんです。親が両方とも本好きで、特に母親が子育てに疲れたときすぐ本屋さんに駆け込んでしまって。「本屋さんで静かにしてるんやったら何買ってもいいよ」みたいな感じだったんですよ。父親の方は新しいガジェットとか文房具が好きで。だから文房具と本はかなり潤沢に与えられてましたね。


ただ漫画や絵本とかを買いすぎると「また?」みたいな顔をされるから、それを掻い潜る手段としてゲームの攻略本とかゲームブックとか図鑑とか、そういうのを買ってもらってたって感じです。あとは児童書みたいな厚めの本もですね。そういう感じで本は身近な存在だったので、当時の何を描いたらいいのか分からない気持ちと「本って自分で作っていいんだ」という気持ちとが小学校のとき出会って、そこからは大体ノートの中に1冊、漫画や小説と一緒に挿絵を描くみたいなことをずっとやってます。


――製本歴が小学生のころから続いているわけですね。


高市さん:

私自身は引っ込み思案ぎみなんですけど、母親がコミュ強ですぐ地域の集まりを催したりするんですよ。で、私がずっと絵を描いているものだから、子どもだし暇そうに見えるんでしょうね。「ポスターを作ってくれ」みたいなことを小さいときからよく言われて。描くんですけど、結構いろいろ発注があったりしました。実家の年賀状とかもずっと小さいときから描いたりしていましたね。ずっと発注ベースの作業を小さいときから続けてた気がします。



――現在続けているイラストのお仕事にも通ずる体験ですね。


高市さん:

通じてる気がしてきましたね(笑)あと家が自営業だったのでコピー機が家にあったんです。だから制作環境がえらく整っていました。これも自分の人生にとって鍵になっているんですけど、コピー機があるからプリントゴッコ(※5)を買ってもらえなかったんです。すごく欲しかったので、その気持ちを抱えたまま大人になってしまって。


(※5)プリントゴッコ

理想科学工業が1970年代から2000年代にかけて販売していた小型の印刷機。製版と印刷の工程を1つの機構でおこなうことができる。


高市さん:

生まれたときからそんな感じのオタク気質でして。小さい頃はアニメもずっと観てましたしね。意識してオタクになったのは、多分小学校5年生か6年生くらいからです。そして初めて同人誌のイベントに出たのが中学2年生のとき。人生で初めて徹夜をしてコピー機で本を作って、親が呆れてました。「準備をもう少し早くからやってたら良かったんじゃない?」って。ごもっともです。


――同人誌を作ること自体は何か言われなかったんですか。


高市さん:

「何してんの」とか言われるわけではなくて。というのも、聞いてみたら母親も昔は自主制作で小説を書いてたみたいなんです。母の友達たちも、今思い返してみたら全員オタクなんですよ。「少年ジャンプの漫画に見えるけど別の作者が描いてる本」が、よく見たら本棚にたくさんささってて。そういう人たちに囲まれて幼少期を過ごしてました。なので、本を作ることとか絵を描くこととかを咎められたことはないです。



――同人活動の苦労を知っているからこその理解だったかもしれませんね。中学2年生のときに最初に出たイベントは何でしたか。


高市さん:

地方の二次創作のイベントですね。神戸国際展示場っていうところで。某ジャンプ作品の本を出しました。周りの友達がその作品を好きで「絵が描けるんだったら高市も描こうぜ」みたいな感じになったのがきっかけですね。


自分たちは二次創作で出たんですけど、会場には一次創作でイラストを描いている人がたくさんいて。そのときお姉さんがたに頼んでスケッチブックに絵を描いてもらいました。でもそれって「どこにもないイラスト」だったんです。当時はインターネットがまさしく黎明期だったので調べたんですが、出てこない。それどころかいまだに名前を覚えていてそのときの絵師さんを検索するんですけど、出会えないんです。「ここでしか出会えないこの人たちの世界って何だろう」と思って、そこから一次創作に興味が出たかたちですね。


――イベントならではの、現在の活動に繋がるエピソードですね。イベントに出ていない間はどのようなかたちで作品を発表されていましたか。


高市さん:

ジャンプの誌上で、ハガキでイラストを描いてバトルしようという企画があったんです。そこで絵を描いて投稿したのがイラストを世間に公開する最初のきっかけですね。結局それは文字情報だけで掲載には至らなかったんですけど「ハガキのサイズにイラストを描いて送る」っていう行為が楽しかったんです。ハガキに私の青春が詰まっているというか。イラスト投稿誌とかも結構あって、片っ端からチェックして、当時NINTENDO64で遊んでいたゲームの絵を描いて「電撃NINTENDO64」という雑誌の読者コーナーに掲載されたことが最初の成功体験でした。


(※6)電撃NINTENDO64

株式会社メディアワークス(現KADOKAWA)が創刊した任天堂専門雑誌。1996年から2001年まで発行された。


――ハガキ戦士だったんですね。


高市さん:

ただ思った以上に、雑誌に載ることがあまりにも嬉しくて。もう、すごい感じたことのないドーパミンが出た反面、イラストが描けなくなっちゃったんです。肩に力が入りすぎて。で、よく分からないまま、絵は描いているしそのまま絵の仕事をしたいなと思って画塾には行っていたけど、イラストをある時点からあまり描かなくなってきていて。そのまま大学を卒業して就活を始めて半年くらい経つまで、表立ってイラストをあまり描いていなかった時期が一瞬ありました。


――筆を置いてしまったのでしょうか。


高市さん:

絵は描いているんですけどあまり発表したりはせず。何かを発表したいなって思うけど、投稿しようと思うと肩に力が入りすぎてしまって、できなくなってしまったんです。スケッチブックとか友達同士の交換ノートの絵は描くけど、「作品を作ろう」みたいな感じの感覚、一枚絵を完成させようみたいな感覚は一時期、高校から大学を卒業するくらいまでの間はなくなってしまいましたね。



――なるほど。ある種のスランプに陥ったわけですが、大学ではどのようなことを学ばれていましたか。


高市さん:

もともと「きっと何かしら絵に関係する仕事に就くだろう」と思っていたので、美術系の大学を志望しました。勉強もそこまでできるわけではなかったので、早くから教科を絞りつつデッサンをしていれば入れるかもしれないと思って、絵の勉強を早いうちからしていたんです。デッサンに手を付けたのが、学校の授業のタイミングとしては遅かったんですけど、画塾に通い始めたのは結構早くて、中3くらいから行っていたんですね。でもそれゆえに「デッサンを上手く描こう」という意識の方に集中してしまって、でも全然デッサンも上手くなくて。


何となくデザイン科とか行きたいなって思ったんですけど、先生から「画力的に受からないよ」と言われてしまって。「でもイラストとか描きたそうだよね、じゃあ倍率的には版画専攻なら入れるんじゃない?」と言われました。「いきなり版画!?」と思ったんですけど、イラスト系で物を作って発表するってところで版画専攻を選びました。


――美術系の大学に入ったとすると、やはり作品づくりに戻ってこられたわけですか。


高市さん:

それが、やっぱり作品作るときの気持ちと自分のなかにあるオタク創作心はずっと乖離したままだったんです。版画自体はすごく楽しかったんですけど、本当に作りたい作品って何だろうなっていう迷いはずっとあったんですよね。作品は作っていたんですけど、違う自分が描いてるみたいな感じの感覚のまま「どうしようかな」と思っていました。「本当は描きたい絵はあるんやけどな」って思いながらも作品が作れない……っていう最悪な時間を、実は過ごしてましたね。


でも版画専攻に進んだことって、よくよく考えたらプリントゴッコが欲しかった気持ちにぴったりフィットしていて。結局人生でプリントゴッコはゲットできず終いになりましたが、夢は叶いましたね(笑)



怒涛のアルバイト列伝


――大学時代のアルバイトはいかがでしたか。


高市さん:

いろいろやってました。無計画すぎて将来自分が何をしたいか分からなかったのと、あと当時が一大派遣バイトブームだったので、ちょこちょこ手を出していましたね。自分の人生で一番印象的だったのが、京都にある先斗町(ぽんとちょう)というところのお寿司屋さんで働いたことです。


――いきなりお寿司ですか。


高市さん:

アルバイトをしたきっかけは「お寿司が大好きだから」っていうだけだったんですけど。いってみれば先斗町は半分夜の街みたいなところだったので、本当にいろんな大人を観察することができたなあと思います。そのときに「この業界の人ってこういう食べ方するんだ、こういう注文するんだ」みたいなところをすごく観察してましたね。それからお酒の勧め方をめっちゃ考えました。「何を飲まれますか?」とか聞いても「うーん」ってなるから、「ビールの後でしたら日本酒とかいかがですか、オススメはこれなんですけど」「じゃあそれで」って言ってもらえるようなコミュニケーションにしよう、みたいなことは気を使いましたね。店長がそこのあたり厳しかったので教育されました。


――コミュニケーション能力が磨かれたんですね。


高市さん:

あと、微妙にこの時期は私の上の世代が就職氷河期で、私の下の世代がリーマンショックっていうので、私の学生時代から就職までが若干プチバブルだったんですよね。後から振り返れば。だから、お客さんにたくさんお寿司おごってもらいました(笑)


ただ飲食業をやっているとき、物事を空想して作る作業と頭の同じところを使ってしまっていて、飲食をずっと続けるわけにはいかないなって思ったんです。いや、美大入ってるからそもそも飲食業にいくなよって感じなんですけど(笑)じゃあ何の仕事ならできるかなって思ったとき、次にやったのが大学構内の建物一棟を丸々任されて掃除するっていう仕事でして。


――今度はお掃除屋さんに。


高市さん:

寿司屋をやめて塞ぎこみがちだったところを先輩に誘われて。「私そろそろ引退するから」って強引にバトンを渡されたんですけど、意外に合ってたんです。給与が決まってるんですけど自由度が高くて、誰か人員を1人追加してもいいし、授業開始までに部屋がすべて綺麗だったらいいわけですよ。


するといろんなストラテジーができて、人を連れていくこともあるし、前の日の授業を調べて授業で触ってない部屋をあらかじめチェックしておいて、確実に汚れてる部屋から当たっていくとか。あとは1回全部屋を開けて、汚れがひどい部屋から入っていく。もしくは授業が1限目から入ってる教室はあらかじめ終わらせて、ちょっと長引きそうだなって思ったら1限が入ってない教室を後回しにする、みたいな戦略をとってました。結局そのバイトでリーダーに上り詰めて、むっちゃ楽しかったです。だから、就職がうまくいかなかったら掃除業界の試験を受けてプロになる未来がありました。


――高市さんがここにいなくて、日本の掃除業界を牛耳っている未来があったんですね。


高市さん:

掃除ってゲーム制作と似てるところはありますよね。素材をどう埋めていくか、というところはどの教室から綺麗にしていくか、というストラテジーに通ずる気がします。あと誰とも話すこともなくできるので、飲食業とは打って変わってそっちも楽しかったですね。給料もよかったし(笑)


その掃除のバイトをしてるときに、事件がありまして。朝イチの仕事なのでもちろん部屋には誰もいないんですよ。でもカーテンの向こう側で「ドサッ」ていう音がして。硬いものではない、若干柔らかい大きなものの音だったんです。だから「人?」って思ってカーテンをバーッて開けたら、窓の向こうにサルが20匹くらいいたときがありました。あれはめちゃめちゃ心臓が飛び上がりましたね。


――ある意味、人より怖い!


高市さん:

人生で2回サルに囲まれたことがあって、そのときは窓越しだったんですけど。もう1回は、つい2年前くらいに嵐山を歩いてたらまたドサッて音がして、振り返ったらサルが1匹いて。その後にサルが次々出てきて、こっちのことを一瞥しながら50匹くらいが住処に帰っていく行列に巻き込まれたことがあって、生きた心地がしなかったです。夕方だったのでヤバかった。



――なぜかサルに縁のある人生ですね。


高市さん:

あとほかのアルバイトとしては、恵文社(※6)に申し込んだんですけど「学生は無理です、フルタイムじゃないと」って言われて。面接にもならず電話口で断られてしまいました。だから「恵文社に愛されたい」という気持ちをずっと抱えたままです。一次創作の人にハマったときに、恵文社のギャラリーアンフェール(※7)っていう長岡京の実店舗が一次創作の本をたくさん置いてて、そこに狂ったんですよ。で、「恵文社は何でこんなに私の人生を狂わせるんだ」と思いました。


(※7)恵文社

京都市一乗寺エリアの書店。本だけでなく雑貨も取り扱っている。


(※8)ギャラリーアンフェール

恵文社に併設されているギャラリー。




――恋ですね。


高市さん:

派遣の仕事で一緒に働いて一番楽しかったのは、某製薬会社の人たちでしたね。元気な人たちで、現場で学生の派遣バイトからの意見も面白いといってくれて、とにかく働いている人たちがとても楽しそうだったんです。いい会社だなあと思いました。逆に辛かったのはTシャツを作るバイト。友達がバックれたいから私を引き込んだのがきっかけで、Tシャツ工場のバイトをしてました。ひたすらシルクスクリーンでTシャツを量産していくんです、しかもギャル服。CECIL McBEE(セシルマクビー)(※8)とか。そういうのにひたすらスパンコールをつける仕事をしてたんですけど、つらすぎて人生で初めてバイトを挫折しました。


(※9)CECIL McBEE(セシルマクビー)

レディースファッションを専門に取り扱うブランド。18~25歳を対象としている。


――本当に数多のアルバイトを経験されてきたんですね。一方、作品づくりの迷走期はその後どうなったのでしょうか。


高市さん:

まずはちょっと幼少期の話に戻るんですけど、絵本を作るのが好きだと思ったころ、そうこうしてると絵で賞とかもらえるようになって。親が喜んで連れてってくれた先が、そのころ神戸でまだできたばっかりだった……もう今はないんですけど……東急ハンズだったんですね。東急ハンズっていうのが自分にとって夢の国で。めちゃめちゃ無限にアイデアが湧いてくる場所だったんです。素材を見て「これで何しよう」とか、「このスケッチブックが欲しいな、じゃあ手に入れたら何を描こう」みたいな感じで、白紙が苦手ゆえに「作品を作る前はまず東急ハンズに行こう」みたいな祈りの気持ちがあって。そういうところから徐々に印刷物とかプロダクト的なものが好きな気持ちが芽生えていったんだと思います。


大学に入って、作品を作るための素材を手に入れるためにももちろん東急ハンズとかユザワヤに行きました。でもあんまりときめかなくて。むしろそこに飾ってるモノの方が好きだよなみたいなのとか、ただの「箱」が好きだよなみたいな気持ちが徐々に芽生えてきたんです。版画専攻のなかで「印刷」って技術だし知識ではあるんですけど、何となく低く見られてたんですね。「アートではない」って。でも「私はもしかして印刷物が好きかもな」って思ったんですよ。




――現在高市さんはroom6で印刷物の監修を数多く手がけていますが、その原点ですね。


高市さん:

そのころ友人に誘われてグループ展をやることになったんです。子どもに向けた展示をしましょうってなって。そこでDM、つまりポストカードを作ろうということになったんですね。そのときたまたま私がAdobeのIllustrator(※9)を持っていたので、「じゃあ、やろうか」みたいな感じでやって。ポストカードが仕上がって来て、それが家に届いて「できたよ」って見たときに、いろんなものがパチッと心の中にハマったような気がしたんです。「あれっ、私ポストカード作りたいのでは?」となりました。そこからは作品を発表するかたちのなかで「印刷物でもいいんじゃないか」みたいな気持ちが出てきましたね。


(※10)AdobeのIllustrator

Adobeは、 画像・動画編集やWebデザインなどに使われるクリエイティブ系ソフトウェアを提供する企業。Illustratorはポスターやチラシなど、平面的なグラフィックデザインに用いられるソフトウェア。


――寿司屋のアルバイトをしていたころからは想像もつかなかった展開ですね。


高市さん:

でも、今思い返せばお寿司も印刷物に近いところがあるなあって。


――お寿司が印刷物に……?


高市さん:

素材が一緒だと誰が握っても再現性があるけど、シャリの塩梅だったり、ネタだったり、型にはハマっているけど型の中の動きがあるじゃないですか。箔押しされたちょっといい紙の名刺って寿司っぽいなって思ってるんですけど。そんな感覚、ないですか?


――確かにワクワク感は通ずるかもしれませんね。とにかく、印刷物に目覚めたことで創作の道筋が見えてきたと。


高市さん:

はい。さらにそのうえでちょうど「どういう絵を描いていくか」とか就職とかに悩んでたときに、中高時代の友達に突然誘われて「大阪のSUPER COMIC CITY関西(※10)に行かないか」って言われたんですよ。「別に今そんなに同人誌に興味ないしな」と思いながら行ったんですが、そこでワダアルコさん(※11)やその界隈の作家さんたちが創作のイラスト集を精力的に出されていて、それに大変感銘を受けて。「あ、絵を描こう。あ、本作ろう」って思いましたね。いろんな要因はあるんですけど、ワダさんやそのとき創作界隈で本出されてた方が結構ゲーム業界出身だったりすることが分かったりして。そういうところから何となく就職の線が見えていったという感じですかね。


(※11)SUPER COMIC CITY関西

赤ブーブー通信社が年に一度開催するオールジャンル同人イベント。インテックス大阪で開催され、参加サークルは10000スペースに及ぶ。


(※12)ワダアルコさん

日本のイラストレーター、キャラクターデザイナー。『Fate』シリーズなどのキャラクターデザインで知られる。





伏線は時を超えて


――いよいよゲーム業界への道筋が見えてきました。


高市さん:

ゲーム業界に入ろうと思ったきっかけが、最終的にはSUPER COMIC CITYで一次創作に触れて、オタク心が再燃してふたたび絵を描き始めたところが大きいんですけど、一応ほかにもちょっとエピソードがありまして。私とゲームの関わりからお話していきますね。


小さいときに、実家が神戸の垂水という小さな港町なんですが坂の上にガソリンスタンドがあって。そこで、人生で初めて引いたくじでファミコンとソフトが当たったんです。えらいことじゃないですか。ガソリンスタンドのお兄さんもびっくりして。でもあまりにもそのとき小さかったので動揺してたんです。「持って帰る?」って聞かれたので「持って帰る!」と答えてそのまま持って帰ったんですけど。多分初めて遊んだのが『ドラゴンクエスト』なんですが、コマンド式のRPGが遊べなくて。ゲーム好きのいとこのお姉さんがいて、そっちにファミコンを引き渡したんです。ということがまずあって、ゲームはどっちかというと上手く遊べなかったなあという気持ちがありました。それが最初のゲームとの接点でしたね。


――第一印象はイマイチだったわけですね。


高市さん:

私は早生まれなのもあって、小さいころは身体が小さくて弱かったんです。加えてさっきも話したように本が好きだったり、あと親が宴会好きだったのでよくその場にいて大人と会話してたんです。それで子ども同士の会話に馴染めなくて、大体ひとりか弟と遊んでたんですよ。しかもあろうことか小学校の入学式のあとに熱を出して1週間くらい休んだんです。そしたらすでにコミュニティができあがってて。「これはもう友達のいない生活を6年過ごすんだなあ」と思ってたら、1人だけ声をかけてくれたんですよね。


――その子と仲良くなったんですか。


高市さん:

はい。今思えばその子もあぶれていたんですけどゲームが好きな子で。高学年になってクラスが離れたときも、帰り道に土管がある空き地でよくゲームの話をしていました。特に彼女のお兄さんもすごいゲーマーだったので遊んだゲームの話を聞いて、私が想像して砂利とかノートに絵を描くような生活をしてたんです。


――ゲーマーとしては羨ましい小学生時代です。


高市さん:

ところが小学4年生のときに阪神・淡路大震災(※12)があって。ストレスで何にもできなくなって、生活のことすらちゃんとできなくなってしまったんです。そこでちょっと療養みたいな感じで、さっき言ったゲーム好きないとこの家に預けられたんですよね。で、そこでまあ、ゲームと漫画三昧の日々を送りまして。いとこも、いとこのお母さんも、全員ゲーム好きで全ゲームハードがあるような家だったんです。


(※13)阪神・淡路大震災

1995年1月17日5時46分、兵庫県淡路島北部でマグニチュード7.3の地震が発生。最大深度7を記録し、甚大な被害を出した。


――いきなりゲーム漬けの日々に。


高市さん:

いとこも一人っ子で、本当にずっと1日遊んで。気が付いたらストレスがなくなってたんですよ。大人たちが本当にそれどころじゃない中で私はゲームを遊んで。あとから考えると「ゲームとか漫画とかって、子どもにとっては本当に必要なものなのでは」と思ったんです。だから、ゲームや漫画がもっと必要なものとして認知されて、もっと多くの子どもが私みたいに救われたらいいな、という気持ちが最初にありました。



――ゲームに救われた原体験があったからこそ、就活のときゲーム業界に進む後押しになったわけですね。ほかにもゲームにまつわる思い出はありますか。


高市さん:

小学生のころからゲームの攻略本を買ってもらったり、投稿したいがためにゲーム雑誌をいろいろ読んでたんですけど、そういう本や雑誌の誌面が好きで。中学受験をしていたんですけど、合格したら何か買ってもらうことになっていて、ゲームハードが欲しかったんですね。で、周りでPlayStationを持ってる人が多かったのに、NINTENDO64を選んだんですよ。


周りに誰もNINTENDO64の会話をできる人がおらず、それこそ弟ぐらいなもので。で、雑誌だけが唯一の救いというか、話し相手みたいなものだったんです。しかもNINTENDO64というハードはなかなか新作がでなくて、次のタイトルが出ないからずっと雑誌ではその間いろいろなコラムを載せて誌面を埋めていたんです。それがすごく面白かったんですよ。


――当時の時代ならではですね。


高市さん:

あと弟がコロコロコミックを読んでたんです。それで同じ『ポケットモンスター』を扱っていても、コロコロコミックと電撃NINTENDO64では書いてあることや使ってるスクリーンショットが違ってたりして、そういうのを見比べるのがすごく楽しかったんですよね。それと攻略本をたくさん買っていたときに、私はどうやら株式会社エイプ(※14)ってところの攻略本が大好きだっていうことに気づいて。


エイプっていうのは糸井重里さん(※15)が中心に設立した会社で、そこの攻略本が好き勝手に書いているんです。私は本のなかのステージを模写したりするのがライフワークとして好きで。そういうことを就活のときに思い出しました。私が就職したのはゲームボーイアドバンスとかニンテンドーDSの時代でしたけど、ゲームの背景アート描きたいかも、ゲームの設計図を描きたいかもって思ったのが繋がってましたね。


(※14)株式会社エイプ

東京糸井重里事務所(現ほぼ日)と任天堂が1989年3月に設立した企業。ゲーム等のコンテンツの知的財産権の管理を主な事業としつつ、任天堂の攻略本の編集・監修を手がけていた。


(※15)糸井重里さん

日本のコピーライター。『MOTHER』シリーズのゲームデザインを手がけた。



――すべて繋がっていると。そして無事にゲーム会社に就職されたわけですが、当時はいかがでしたか。


高市さん:

ゲーム制作がすごく身体に合ってて。アイデアやテーマをスケジュールとかデザインの型にはめていく作業がすごく楽しかったんですよ。で、はじめは開発の方のいち作業員、デザイナーとして入ってたんです。けど気が付いたら、どちらかというと企画とか、ゲームをどうするかって考えたりとかっていう仕事を振られていて。たぶん上の人は制作進行的なところをさせようと思っていたみたいで、そっちの教育をされてたんですよ。


――なるほど。しかしデザイナーとして入った当時は、複雑な思いだったのではないでしょうか。


高市さん:

はい。デザインの仕事があんまりなくって。しかも同期はすごく絵がうまいから「いつかクビになる」と思って、家で絵のコソ練をしてたんです。あとから会社辞めた後に「ああ、こう育てたかったんだな」っていうのに気づいたんですけどね。でもゲーム制作自体は楽しかったです。


で、私は学生時代にちょっとSUPER COMIC CITY関西を覗きにいったくらいだったのに対して、同期は絵が上手すぎて、みんな「次のコミケどうする?」みたいな感じで夏が近づくとワイワイし始めたんですよ。「え、コミケ出てんの!?」「うんうん、学生のときから出してるよ」みたいな会話をして、私もちょっと「イベントで本出すのやりたい!」と思って。そこからイベントに出るために絵を描き始めたりしました。


――ここでもやっぱり、本を作りたい思いが先にあったんですね。


高市さん:

それからイラストを描いてイベントで本を出すようになったんですが、絵を描く友達たちはフリーランスのイラストレーターになったりして、いなくなっていって。忙しくなってみんな本を作らなくなっていったんです。


歳月が過ぎるなか、会社でとある長寿タイトルがあったんですけど、周年記念でスタッフ本(ゲームの開発スタッフが制作する同人誌)を作りたいという話が持ち上がったんです。少し前なら同人誌を作っているメンバーがたくさんいたんですけど、そのとき本を日常的に作っているのが私だけで。回りまわって他部署の上司がやってきて「本、作ってるよね」って聞かれて、言い訳できずスタッフ本を作ることになったんです。


――お仕事で印刷物を手がけることに。


高市さん:

そうですね。それでちょうどそのスタッフ本や周年の企画をきっかけに、会社のIP戦略や広報活動を本格化してちゃんとデザインスタッフなどのメンバーを入れて部署を作ろうっていう動きがあって。スタッフ本がきっかけで新部署異動したことが、広報・パブリッシングに携わった最初なんです。絵のコソ練をしていたり、スタッフ本をつくる際に印刷会社さんに教えを請うたりしていたので、少しだけなら印刷の技術も分かっていましたしね。


――地道に続けてきた活動が繋がったわけですね。


高市さん:

で、そのスタッフ本のゲームなんですけど、シリーズの新しい作品はやったことがあったんですけど、古い作品はやってなかったんですよ。そのときのハードではもうできない作品もあったので、会社に資料室があって、そこでキャラクターの名前や相関図とかチェックしてたら、なぜか知らないはずの作品の記憶が全部あって。


――なぜ?


高市さん:

遊んでないのに何でかなって思い返したら、さっき小学校のときにたった1人声をかけてくれた子の話をしたじゃないですか。下校の時間に土管でしゃべってた人物相関図とかキャラクターを全部覚えてて、それが資料室で見た内容と一致したんです。「これ、あのゲームや〜!」と思って。しっかりキャラクターの知識が入ってて、謎の伏線回収をしました。なので、繋がって楽しかったですね。ちょっと運命かなと思いました。


――それは熱い展開ですね。


高市さん:

そのタイトル、すごく衝撃的な展開なんですよ。それを友達が毎日リアルタイムで日記のように「聞いてくれ。やばい、あのキャラが死んだ」みたいな話を語ってくれて。学校の授業よりそっちの方が覚えてました。その子がまた、しゃべるのが上手くって。よく学校で漫才を展開してるような子だったんです。一人遊びが得意な子で、その子がしゃべってくれた内容をたまたま全部記憶していて。だからすごく仕事の役に立ちました。本当に変わった友人で、ルービックキューブとか6マスパズルを渡すと一瞬で組み上げるっていう不思議な才能の持ち主でしたね。


――天才肌の友人がくれたヒントが結実したと。


高市さん:

もう一個地味な伏線回収があるんです……。就活中はゲームやアニメ、グッズ制作の会社を受けてたんですけど、あんまりうまくいかなかったんです。ポートフォリオを出して担当者とやりとりするけど、自分自身も課題をやっててしんどかったりして……。


いろいろ考えてゲーム会社を受けて、受かった後にその内定先で大学卒業前に働いたんです。そのタイミングがちょうど新しいハードが発売されるタイミングで、もしかしたらローンチタイトルに参加できるんじゃないか? と思いまして。採用時に「バイトいけますか?」って聞いたら「いけますよ」と返事が来たんです。だから卒業するまでに1本ゲームを出すことができたんですよ。


「やったー!」と思って完成後に、ゲームといえばいとこの家だったので、報告にいったんです。そしたら、叔母が「あ、もうプレイしたけどあんたが仕事でやってたんだ」って言われて。すでに遊んでたっていう(笑)


そういう風に「絵を描いてゲームをつくってみんなが遊んでくれるってすごいことだな、楽しいな」という気持ちが、気が付けばかたちになったって感じですね。



さまざまな偶然と伏線が重なってゲーム業界に入られた高市さん。そんな高市さんがroom6に入るまでのお話は、次回お届けします。お楽しみに!


この記事を書いた人

  • 聞き手:ササン三(room6)

  • 編集:ササン三(room6)

  • 校正:fukushima(room6)

  • デザイン:高市(room6)

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